なかはらの魅力発信「中原街道 今・昔」

江戸時代、多摩川を渡って入府するには、海側から東海道、中原街道、大山街道、津久井街道の4本だけでした。地元中原を通り抜けた中原街道はどのような佇まいだったのでしょうか。

  

すみよしUHC(ユニバーサルホッケークラブ)

 今年8月から来年3月まで、中原区役所主催による「なかはらの魅力発信講座」が開かれています(協力=なかはら散策ガイドの会)。10月22日(月曜)に行われたそれは「座学 中原街道 今・昔」。
 講師は、郷土史研究の第一人者の羽田猛さん。川崎市公立学校長を定年退職後、趣味のカメラ撮影を活かした地域の歴史を掘り起こし、『目で見る中原街道』など数々の本を上梓しています。
 古代からあったともいわれる中原街道ですが、どのような役割を果たしていたのでしょうか。羽田さんは次のように話します。
 「江戸と駿府(静岡)とを結ぶ重要な路線として生まれたのが中原街道で、東海道より古い道です。この街道は、江戸虎ノ門から三田、戸越、駒込を通り多摩川を渡り、川崎の丸子、小杉、上・下小田中、新城、野川、横浜の佐江戸、瀬谷を経て相模川を越え、平塚の中原で東海道に合流している道です。中原街道は別名、相模を通るので『相州街道』、平塚で造られたお酢を江戸城に運んだので『お酢街道』とも呼ばれていました。昭和になると小杉や上小田中では、下肥を積んだ荷車が、朝夕に何台も往来していたので、中原街道は『こやし街道』などと呼ばれていました」
 「徳川家康が初めて江戸に入ったのは天正18(1590)年。その頃、東海道はまだ整備されておらず、家康は、平塚からほぼ直線で江戸に向かう中原街道を利用しました。二代将軍の秀忠が平塚にあった中原御殿と同じように小杉に小杉御殿を建てたのは慶長13(1608)年で、家康・秀忠・家光の三代にわたる将軍が鷹狩りなどの際に、ここ小杉御殿で休息したり、西国の諸大名が江戸への往復の時に利用しました。やがて東海道が整備され、大名行列など多くが利用するようになると、小杉御殿の存在が薄れ、建物は品川の東海寺などにすべて移築されました」
 現在の小杉御殿町という地名の由来にもなった小杉御殿は、西明寺付近にありました。その広さは、一万二千坪(4万平方メートル)に及び、表御門・御主殿・御殿番屋敷・御蔵・御馬屋敷・裏御門などが建ち並んでいたそうです。御殿に続くカギ型の道筋は、御殿の守りとして防衛の役目を果たし、その形を今も残しています(カギの道)。
 東海道が主街道になると中原街道の存在は薄れますが、羽田さんは、街道の新たな役割についてこう指摘します。
 「中原街道は脇住還となり以前の賑わいを失ってしまいましたが、沿線の物資、農作物の輸送などに欠かせない道として、その後も人々の生活に深い関わりを持ち続けてきました。生活・経済の中心は小杉御殿町(小杉村)で、明治になると、小学校・郵便局・銀行などが開設され、とくに銀行は、中原銀行・石橋銀行・玉川銀行の3つもありました。街道沿いには、旧家・商家・石仏・碑・寺などが残り、少しずつ消えていきますが、この地域で織りなされてきた歴史をしのぶことができます」
 そう言って、羽田さんは、旧跡や建物など36か所を、地図上に示しながら解説していきます。
 それらを実際に見て回る「まち歩き 中原街道とその周辺」が、11月26日と12月27日、「なかはら散策ガイドの会」の案内によって行われます。あなたも、歴史街道のひとつ「中原街道」を歩いてみませんか。往時の佇まいが感じられることでしょう。